「なんだ、この汚い女は」
我が耳を疑いました。直後、背を向けて立ち去る貴方に手を伸ばすことも忘れ、呆然と立ち尽くしました。いっそ人違いであったならと、そう願っていたかもしれません。
「どうし……て?」
ねえ貴方、貴方は本当に私をお忘れになっていたのですか。私はどれほど固く縛られ、どれほど意地悪に弄ばれても貴方をお慕いし続けた女です。憎むことも知らず、侮ることも知らず、ひたすら縋(すが)ることに自らの存在を見出してきた女です。そんな私を、貴方は如何なる理由で忘れてしまったと云うのですか。
確かにあの数カ月で、私の姿はすっかり変わってしまいました。痩せ細り、頬はこけ、目は窪み、衣服は破れ、ひどく汚かったでしょう。だからですか? だから私だとお気づきにならなかったのですか。
ひとり自失の中に取り残された私は、小さくなって行く貴方の後ろ姿をただ凝視しておりました。とめどなく涙が零れておりました。その瞳には呪い、怒り、憎しみ、焦り、憤り、それら負の感情が混在しておりました。けれどその中に、捨てきれない一縷(いちる)の愛情も潜ませていたのです。
どうやら私の人生は、あそこでプツリと終わってしまったのかもしれません。
もし、人の幸福に定められた量があるのなら、貴方から頂いたものだけで、私は一生分の幸福を使いきってしまったのでしょう。お前は充分に幸福を得たではないか。と、神様もそう仰っていたように思います。だから貴方も足を止めてくださらなかったのですね。
私は一瞬にしてすべてを理解しました。もちろん不満もございませんでした。つまり私には最初から何も残されていなかったのです。ただ輪郭のぼやけた貴方と、衰弱に覚束ない足許、そして夜の底に積もった雪だけを残して、それ以外の全てを失っていたのです。
あの日から私は、自身の最期に向かって進むことにしました。幕引きをせよと、やはり何処からか神様の声が聞こえていたように思います。
向かうべきは貴方。でも、それは死を以て行われるべき。そんな結論に行き着いたのでした。