――散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ 人も人なれ――

   と、そう詠んだのは細川ガラシャでしたでしょうか。やっと私にもその時が見えました。

   しかし、カトリック信者の私に自殺はできません。それでは煉獄にて浄化を受けられないのです。私の思念は貴方に滅ぼされることを、思想は極めて自然死に近いものを望んでおりました。

   では如何にして?

   ふふふ……お気づきになられませんでしたか。甚だ勝手ではございますが、貴方のことは全てお調べさせていただきました。暦を忘れ、寝食さえも忘れて貴方を追っていたのです。

   そして私は知りました。貴方は大学で教鞭をとる、偉いお医者様だったのですね。

   神様、感謝致します。貴方、ありがとうございます。おかげでもう一度貴方にお会いする機会が得られました。

   いま私は、思い出が詰まったあの部屋の障子紙に貴方への手紙を認(したた)めております。六日前からは何も食しておりませんので、そろそろ体力も限界でしょう。手が震えてまいりました。目も霞んでまいりました。死がそこまで迫っているようでございます。私は間もなく死んで、貴方の許へと向かいます。そう思えば、きっと手の震えは歓喜から、目の霞みは感涙からなのでしょうね。

   あはは……。ねえ、貴方。断食の結果命を失っても、それは自殺にならないのですよ。それに聖マタイ様も、人はパンのみにて生くるにあらずと、そう仰っていたではないですか。ならば心を満たす為に生き、そして心を満たす為に死ぬことに何の罪がありましょうか。何より、またお目にかかれると思うだけで私は……ああ。