そんなある日のことです。珍しく職場の仲間と繁華街に出た私は、いつしか慣れない街に皆と離れ、賑わう雑踏の中をひとり孤独に彷徨っておりました。

   人混みの中にひとり、とは真に不安なものです。その時、私の面(おもて)には焦慮が宿っていたことでしょう。いえ、狼狽に憑依されていたかもしれません。ですが、それを貴方に見初められた……と云っては自惚れに過ぎるでしょうか。不意に雑踏の中から現れた貴方は、私に優しく声をかけてくださいましたね。

「道にでも迷ったのかな?」

   私は、はっとして貴方を見上げました。十(とお)は年嵩(としかさ)に見えた貴方が、その頬に穏やかな頬笑みを湛えて私を見つめておられたことをよく覚えております。

   まだ殿方に不慣れでありましたあの時の対応は本当にお恥ずかしいもので……。改めてお詫びを申し上げます。

「あの、いえ、結構です。すみません」

   我ながら何が結構だったのか。さぞ貴方は御不審に思われたことでしょう。

「とりあえず駅まで連れて行ってあげよう。なに、すぐそこだ。それからお仲間に連絡するといい」

   と、そうは申されましても、親も無く、また生活に余裕があった訳でもない私には、しかし電話というものがありませんでした。はい。なので駅まで行ったところで、同僚の家の番号はおろか職場の番号さえも暗記してはいなかったのです。

   でも、そんな事情を知っても、貴方は私を蔑みませんでしたね。御親切にも番号をお調べになってくださいました。そればかりか、御自身のお金で連絡まで入れてくださったのです。

   ありがとうございます。あの日、無事に仲間と合流できたのは全て貴方のおかげでした。

   その後、何事もなかったかのように立ち去る貴方のお姿を見た時、私の胸には感謝と、そして貴方への憧憬が置き土産として残されていたのです。 それは全ての者を遍く(あまねく)愛せよ。と、教えられて育った私が、生まれて初めて特定の誰かを愛し始めた瞬間でした。

   ねえ?  あの日のことを、貴方は覚えていらっしゃいますか?